引き続き伝承神話から。今度はオリジナルの仏像です。
名のある仏師は仏像を作る際に、自分の意匠を仏像に込めますが、それはまさに仏に魂を入れるのと同じ事。有名な仏像を寸分違わえずにコピーしても「仏作って魂入れず」で有難味がありません。この事は信仰と鑑賞の違いこそあれ、特撮怪獣怪人のガレキ(ガレージキット)にも共通するものがあります。量産される通常のフィギアやソフビとは違う付加価値。シルエットやポーズやプロポーションやディティールへの微妙なこだわりがオリジナルとはひと味番う魅力や迫力を生み出します。しかし、だからと言って、例えばゴジラはゴジラである事の範疇を出てはならない。余分な角や翼や鰭を付けたら、それはもうパチモンでしかない。仏像も同じです、形状 衣装 持ち物 ポーズに至るまで最小限の約束事があり、これを出てはならない。ルールを外したものを作ったら、それはもう「仏」としての信仰の対象にはなり得ません。魂を入れる以前に「仏」にすらならないのです。
「風雲 たけし城」で、千手観音のコスプレで参加した軍団員がいましたが、頭が如来の螺髪になっていました。しかし、千手観音の頭は十一の化仏が乗った「十一面観音」のそれでなければなりません。軍団員のコスプレはまさに「仏像のパチキャラ」でした。また、某お寺を観光した際に「千手観音像」の説明のあった仏像を見ましたが、頭上に十一の化仏がありませんでした。本当は准胝観音像なのに間違った説明がされていたのでしょう。ここのお坊さんも勉強不足ですな。
特撮怪獣の世界では「ゴジラに襟巻を付けてジラース」なんてのもありましたが、仏像信仰の世界では、今迄十一面観音として拝んでいた仏に無数の手を付けて今後は千手観音として拝む などという事は有り得ないとは思います。(もっとも、両津勘吉ならやりそうですが。)
さて、画像ですが、私がオリジナルに考えた「千手観音」です。実際に千の手を持つものもありますが、40本という数に収めている場合が多いみたいです。(野の石仏とかでは十本程度というのもあります。)その40本の手も面倒くさいから、いっそ大きな手で間に合わせた というのが画像のそれです。確かに前衛的ではありますが、信仰の対象としては聊か無理がありますよね。(四臂の十一面観音もあるので、むしろその変形と考えた方が良いでしょう。)ま、「鰯の頭も信心から」と言うし、自分一人で拝むには構わないでしょう。